2005年6月24日

オールディーズ [ その5 ] (斉藤真弓)

 その番組はというと司会者があのウォルト・ディズニーさんの「ディズニーランド」というアメリカの番組だったのです。今でも覚えています。「みなさんこんばんは!ディズニーランド、そこには4つの国があります。おとぎの国、開拓の国、冒険の国、そして未来の国です。さて、今日は○○の国からお送りしましょう!」といって番組を進めるのです。
その国を紹介するときティンカーベルが杖を振って紹介するのです。開拓の国のときはかわいらしい姿で、ドンダッタッタ、ドンダッタッタ…アワワワ…とインディアンのまねをしたり。おとぎの国からだったりすると、ディズニーアニメのメーキングなどを放映したり、ミッキーやドナルドの短編アニメを放映したりしていました。もちろん白黒でした。でもファンタジアのメーキングを見たときはカラーを感じてしまいました。

 そう言えば最近発売されたDVDで「バンビ」やオリジナルの「ファンタジァ」がありますが、その中にメーキングが収録されてるという事なので見てはいませんがおそらく私が昔その番組で紹介されたものを見た同じメーキングが収録されていると思うのです。

 本当に10歳の私にとって、余りにも衝撃的なアニメでした。(そのころは動画と言ってましたが)
 2000年の年にディズニーではファンタジアをリメークして「ファンタジア2000」を公開しましたが、昔の方がずっといいような気がします。最近見比べてもそう思います。CGを使わず、さらにフルアニメで手書きなんですもの。

 また、その番組ではいろんなディズニー映画の予告編も放映しました。「三匹荒野を行く」、「罠にかかったパパとママ」、「難破船」、「少女パレアナ」、「黄色い老犬」など。
 「三匹荒野を行く」や「罠にかかったパパとママ」は後にリメークされました。新旧、どちらも見ましたが、やっぱり昔のものの方がいい。
「三匹荒野を行く」、「罠にかかったパパとママ」それはやっぱり、直接ウォルト・ディズニーさんが手がけているからではないでしょうか。

ついでにお話しますが、おじさんの奥さんつまり、おばさんですが、その妹さんのだんなさんがそのころに、アメリカは西海岸へ出張したらしいです。
その際、帰国時に私にもお土産をくれたのです。
それが、なんとなんとディズニーランドの立体写真。つまり、3Dフォトなのです。
 
 ドーナツ型のまるい厚紙で出来たものの淵にカラーのフィルムがぐるっと並んでて、それが何枚もあるんですが、それを1枚づつオペラグラスのようなものに差し込むとスライドが見れるんです。それも立体的に。まるでそれは夢の国。

 1955年オープン(今年は開園50周年記念の年)のカリフォルニア、アナハイムのディズニーの世界が手の届くような感じで目に映ったのです。ため息が出ました。

 こんな夢の国がアメリカにあるんだなーって。
それが私をアメリカにあこがれさせた最初でした。
そして、ディズニー狂になった最初でした。
 
 そんな訳でこの番組は私の思い出深い番組となりました。

 そのほか探偵もの、変身もの、ちゃんばらなどけっこう面白い番組がたくさんあったように思います。
同世代の友人達に聞いてみるとあのころテレビを見てた人は少ないのです。そういう環境の時代でした。

 もう一つ私が影響を受けた事があるのです。叔母さんは私を受け入れる前に、近くの中学校で英語の教師をしていました。
でも、おじさんが女が働くのは嫌いだと言ったらしく、やめざるを得なかったようです。
もったいないと思いました。

 でも、叔母さんは家で今で言う塾を開いたのです。で、私は隣のへやで過ごしていたので、その様子はよくわかりました。
何やら訳のわからない言葉が聞こえる…と思ってました。
それが英語って事がだんだん解ってきたって言う程度でした。なんせ聞いたこともない言葉が飛び交っていたのですから。たぶん教科書を読んでたのでしょう。今だったら、小学生くらいだったら、いえ幼児でも、英語だってことすぐにわかるでしょうね。

 そんな環境で私もだんだん未知なるその英語に興味を持ち始めたのです。
これが私を英語に興味を持たせた最初でした。

 そんな叔母さん、当然ハイカラさんで、いろんな西洋料理なども上手で、よく作ってくれました。
ホットケーキなども初めて食べさせてもらいました。クリスマスにはパーティを開いてもらいました。
初めての経験でした。沢山のごちそう、見たこともないデコレーションケーキ(確かバタークリームだった)、そしてなによりも驚いたのがきれいなクリスマスツリー。
まるで本当にディズニーランドに行ったような気分でした。

 そして、すぐにお正月が来ると、おばさんのお友達もやって来て、みんなでおせち料理を作りました。おせち料理なんて始めて見たのでした。
会津では大晦日にざくざく(こづゆよりも格が下)と赤い魚を食べて、あとは元日にはそば、二日もち、三日とろろ、とそれだけでしたから。
それにほとんど寝正月。三日あたりになって、映画に連れて行ってもらうくらいでしたから。それでも1年に1度の映画だったので、嬉しかったなあ。

 おばさんの家では、着物を着せてもらい、友達とかるた取りや凧揚げなどをしたり、まるで映画の世界のお正月だという思いでした。雪深い会津では考えられないことでした。

 お正月を過ぎると急に春めいて、毎日が日向ぼっこできるような天気が続きました。
さすが南紀、冬でも太陽いっぱいで信じられないくらいです。

 近くの山の南側の斜面にはたくさんのみかんが枝もたわわになっていて、南紀の明るい冬の太陽に燦々とあびていました。
その余り高くない山のてっぺんに登ると遠くの方にきらきらと光る海が見えるのです。
安珍清姫の道成寺山のてっぺんからは海に沈む夕陽を見る事ができ、よく登っては眺めました。
そのころ遠巻きに見た海が生まれて初めて見た憧れの海でした。

 その後、その憧れの海を円月島のある白浜に連れて行ってもらったことで間近に見ることになりました。

 そんな生活がしばらく続き、ここはいいところだなしばらくここで暮らせるのかしらと半信半疑の思いで過ごしていたある日、おじさんが小名浜に転勤になるって聞いたのです。

 転勤てなんだろう。はじめは何のことかわからなかった私ですが、福島県の小名浜の工場に移動するんだって聞いて、びっくりしました。

 まだ、ここに来て半年なのに、ここがとっても好きなのに、友達も沢山できたのに、と思いました。
が、反面、福島県って聞いて、会津に近いんだろうか…とも思いました。ふるさとの母が、手紙をくれて、会津に近くなるんだってことも分かったのです。

 でも、別れはとってもつらかった。たった半年なのにたくさんの思い出、それもいい思い出しかなかったのです。
南紀のおだやかな気候、優しい友達、先生、田舎なのに文化的な生活、たのしかったテレビ…私達が、大勢の町の人たちに見送られて現在は無人駅となっている道成寺駅を後にしたのは、私が6年生になったばかりの4月の末でした。

 このおじさんの転勤がまたまた、私にとって新たなターニングポイントとなったのです。

投稿者 aizunekai : 18:09 | コメント(1)

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