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2006年05月06日
オールディーズ [ その7 ] ( mayumi )
また、おじさんはそのころめずらしいテレビも入れたのです。そのおかげで私は初めてオリンピックをテレビで見ることができたのです。
それはローマオリンピック。はだしのアベベ選手が金メダルを取ったのです。ローマの遺跡もテレビで初めて見て大感激しました。
また、私の大好きな「ディズニーランド」の番組、ウォルト・ディズニー氏の「みなさんこんばんは。ディズニーランド、そこは4つの国があります…」と言うあの名せりふが忘れられません。それが、家で見られるのがうれしかったです。白黒でしたが、カラーを感じました。番組の中で「ファンタジア」のメイキングを見てこの世のものとは思えない大感激したことを覚えています。
このファンタジアは何十年も後にビデオで見ましたが(つまり最近ですね)これが戦前に作られたアニメ映画かとため息が出ました。かつて戦争中アメリカ軍から押収した映画フィルムの中にこの「ファンタジア」もあって、このフィルムを見た徳川夢声さん(往年の声優)がこんなすばらしい映画を作る国にはぜったい勝てないと思われたとか。うなずけることだと思います。最近リメークされて「ファンタジア2000」が作られましたが、直接ウォルトさんが手がけた元祖「ファンタジア」の方が私は好きです。
ピノキオのメイキングも放送されましたが、背景のあの立体感はあんな風に撮影されたのかと目からうろこでした。そしてバンビのメイキングではスタジオに本物の鹿を連れ込んでいろんな角度から鹿の様子をスケッチしたとか。ディズニーのすばらしさがひしひしと伝わってきました。
また、おばさんの妹さんのだんなさんがアメリカへ出張したときにアナハイムのディズニーランド、当時オープンしたばかりのころでしょうね、そのディズニーランドの立体写真をお土産にもらいました。その立体写真というのが、おもしろいしろもので、まあるいドーナツ版、ちょうどドーナツ版のレコードを小さくしたような形、そして、淵のところにちいさなカラーフィルムが並んでる。それを双眼鏡のような機会にセットしてのぞき、レバーをスライドさせると次々フィルムが画面に映し出され立体的画像を見ることが出来るのです。それはなんと夢の国でした。手の届くところに夢の世界が広がっていたのです。ため息が出てしまいました。テレビで見たあの世界が広がっている。白雪姫が、7人の小人が、ミッキーが…そして夢のようなディズニーランドが、夢のようなメインストリートのパレード、冒険の国が、ピーターパンの世界が…いつかぜったいアメリカに行ってディズニーランドへ行くんだ…子供心に夢を描いていました。
そのころまさか日本にディズニーランドが出来るなんて夢にも思っていませんでしたもの。今の子供たちに聞かせてもどれだけ感激を共にしてくれるかな…疑問です。
小学6年生の多感なころの私は吸い取り紙のようにすんなりとそれもすばらしいものを吸収した時期でした。そんな意味では小名浜時代というのは今の私の基礎が出来上がった時代かなと思います。たった1年ですが。でも和歌山時代とあわせて1年半です。
このまま、小名浜の中学、そして小名浜の高校と進むはずでした。ただそのころでもまだ、クラスメイトとはうまくいかなかったような気がします。相変わらず先生には一目おかれていたようでしたが。ただでさえ新日本科学(旭化成の子会社。旭化成の社員だったおじさんは新しい子会社へ技術提供のため転勤になったらしい)の社宅の子供たちはスクールバスで送り迎えされていましたからほかの生徒からも、うとましく思われていたのかも知れません。
社宅の子以外とはあまりうまく行かなかった一年も過ぎ、卒業となりました。そして春休みに入って何日か過ぎたころ、遊びから家に戻ると、なんとびっくり父が来てるではないか。突然のことで本当にびっくりでした。それよりびっくりしたことは私は会津の家に戻ることに決まってたことでした。これも後から聞いたことだがやはり、祖父がどうしても連れて帰れと聞かなかったらしい。真弓を邪魔に思ってるんだろうと責められたらしい。それでも私はなすがままに従った。今考えると素直過ぎたなあ、私も。
あっという間に、事が運び、再び会津へと戻ることになってしまった。どんなにかおじやおばはそのとき残念がったかと思う。私ももっと抵抗して考えればよかったと思ってみたりする。そのときもう少し考えて抵抗してれば今の私はここにこうしていないのだ。何がその人にとってよかったか、悪かったかわからないものだ。果たしていまよりいい人生送っていたか、または悲惨な人生送っていたか…
確かなことはおじさんとおばさんのおかげで、多感な時期たった1年半だったけど、そのえい影響はその後の人生、あるいは私の子供たちにまで影響を与えるほど、とてつもなく大きなものだったということです。
その後、中学生になった私は最高のティーンエイジャー時代を送ることになるのです。貧乏な時代、でも心はとっても豊かな時代、そして可能性は無限大でした。また、世の中の時代背景も最高に活気のある時代だったんじゃないかと思います。
今、昔の小中学生のころの通信簿を見てみるとおばさんとこへ行く前と後では性格があきらかにまるで違ってることがよくわかります。どこでかというと先生の生活面の所見を記入する箇所がありますが、そこに書いてあることがまるで違うのです。それほど私の性格はいい方に変わっていました。
つまり今の私はおばさんの家にいる1年半の間に急激に形成されたものなのです。性格だけでなく、生き方そのものが培われたといっても過言でありません。
だから和歌山へ行った事が第一のターニングポイントと言うことになります。
ただ、小名浜におじさんが転勤にならなければきっと私はおじさんの家で過ごし、そのまま養女になっていたかもしれません。もっと違った人生を歩んでいたかもしれません。ですから小名浜転勤が第二のターニングポイントになったと言うわけです。
中学時代それは青春の入り口に立った私ですが、さて、どんな日々を過ごしたのでしょうか。また、ひとりよがりになってしまうかも知れませんが、それはまた次回ということで。
