「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
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 京都に攻め上ぼった長州勢は、山崎天王山と嵯峨天龍寺などに布陣しました。戦がはじまるというので、京都の街は不安に包まれました。町人たちは家財道具を荷車に積んで脱出を始める騒ぎです。この混乱を静めなければ、京都守護職の役目はまっとうできません。会津藩の本陣に緊張が走りました。「近藤、頼むぞ」松平容保は新選組の近藤勇を激励しました。新選組の探索方は、嵯峨で重大な情報を掴みました。

 長州勢が周辺の住民に金子をばらまき、・「長州藩でなければ国政はつとまらない」と吹聴しているというのです。「これは幕府を否定するものだ。ゆるせぬ」容保公は激怒しました。「目にものみせてやる」近藤勇はぐっと、まなじりを決しました。会津藩の主力部隊は蛤御門を固める一方、新選組と一緒に竹田街道にも兵を出し、伏見から進撃せんとする長州勢を待ち受けました。
 
 七月十九日未明、御所の周辺にしのび込んだ長州勢がついに発砲を始めました。これを合図に白鉢巻きの甲冑姿、抜身の槍や鉄砲を携えた長州勢が提灯、松明をかかげて御所に迫って来ました。
 御所を占領し、天皇を拉致せんとする暴挙でした。これは前代未聞の狂気でした。このとき、容保公は、まだ病におかされていました。髪は乱れ、髭は伸び、頬の肉は落ち、足がふらつき、歩くのもおぼつかない状態でした。

 御所の階段に体を寄せ、「帝をお守りするのだ、各自、死を決して戦うべし」と叫び続けました。この姿に会津藩兵は振るい立ちました。長州勢はついに大砲を撃ち始めました。砲弾が轟音ともに御所に落ち、建物を壊し、守備兵を吹き飛ばしました。

「長州がにくい」孝明天皇は体を震わせて激怒しました。女官は泣きわめき、皇太子、後の明治天皇は恐怖のあまり、気絶しました。「おのれ、長州めっ」会津藩兵と新選組は刀を抜いて長州勢に向かって突撃しました。新選組は長州勢を切りまくりました。それは、まさしく正義の戦いでした。

 薩摩藩も加勢しました。この時期、会津藩と薩摩藩は友好関係にあったのです。会津藩の大砲隊も御所のお花畑に据え付けた大砲で長州勢が潜む鷹司邸に反撃を加えました。命中するたびに大きな火柱が空高くあがりました。長州勢は逃走しました。長州の幹部の多くは鷹司邸で自刃しました。会津藩と新選組は御所を守ったのです。「朕は容保をもっとも信頼するぞ」孝明天皇から、お言葉があり、容保は感激のあまり、泣き伏し、会津の重臣たちも容保を囲んで感涙にむせびました。会津藩公用方の広沢富次郎が、薩摩藩邸にお礼に伺うと、西郷隆盛は、「容保公はお見事な指揮でござった。新選組もよくやったぞ」とご機嫌でした。

 薩摩藩の協力は大きいと、広沢が思いました。「長州勢は京都の街のあちこちに火を放って大阪方面に逃走しました。火の手は次第に強くなり、火は三日間も燃え続けました。記録によりますと、この火災で焼けた家屋は、二万七千五百十三軒にも及びました。焼け死んだ人も大勢いました。

 会津藩と新選組は逃げた長州勢を追い詰めました。リーダーの一人、眞木和泉は同志数十人と天王山に逃れましたが、新選組の近藤勇、土方歳三らに取り囲まれると、ありったけの銃弾を撃ち尽くし、山頂の小屋に火薬を仕掛け、割腹したあと小屋ごと吹き飛ばしました。

「敵ながらあっぱれな振る舞いだ」近藤勇は散乱した眞木和泉の遺体を丁重に埋葬して引き上げました。以後、長州は朝敵となり、朝廷からは一切の出入りを禁止されたのです。

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