「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
新撰組:会津藩との固い絆

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 禁門の変は会津藩と新選組が勝利し、過激な長州勢は京の都から一掃されたのです。会津藩と新選組の絆は一層、強まりました。戦いのあと会津藩主松平容保は新選組局長の近藤勇を会津藩の本陣に招き、感謝の意を伝えました。
「松平容保公は我ら一同の国家に尽くさんとする決意に感心あらせられ、今後も会津の者と力を合わせ、救助あい頼みたしと仰せになられた」このときのことを、近藤勇はこう書き残しております。

 会津藩と新選組は一心同体の形で、都の治安維持に当たることになったのです。新選組の手当ては幕府経由で会津藩から支払われました。給料の額は一人一か月三両でした。今日の貨幣価値に直せば、二十万ぐらいでしょうか。戦のたびに臨時のボーナスが出たので、平均すれば、四十万前後になりました。当時としては高額の給料でした。

 新選組の隊士は厳しい規律のもとで団体生活を送っていました。
それは、
 一、武士道に、そむいてはならない
 一、新選組を脱することは許さない
 一、勝手に金策してはならない
 一、勝手に訴訟を起こすことも許さない
 一、個人の感情や恨みで斬り合いをしてはならない。喧嘩口論もしてはならない。
というものでした。
  そして、この条項に背いた者は、切腹を申し付けるという厳しいものでした。文字通り鉄の団結でした。普段は武術の訓練に明け暮れていました。 いまでいえば新選組は警視庁の機動部隊でした。誰もが武術の達人でした。

 もっとも強いといわれたのは沖田総司でした。池田屋事件でその腕は実証ずみでした。沖田総司は、白河藩士の子供で、天性の勘で、二十歳のときには、もう近藤道場の塾頭でした。

 刀を握った時の総司は、前のめりの構えで、太刀の先を下がりぎみにし、甲高い声で切り込んでゆきました。実戦になると、「やっ、やっつ」と掛け声をかけて、小刻みな三本突きで相手を追い詰めました。惜しむらくは肺が冒されていて、池田屋事件のとき、血をはいて倒れたという説もありました。

 次の使い手は、斎藤一です。後年、斎藤は山口次郎と名前を変え、会津若松に来て戦いました。播州明石の出身ですが会津藩が大好きで、白河口や母成峠の戦いで活躍しました。松平容保も斎藤が会津に来たとき、会津の女性と結婚させています。会津落城後、斎藤は会津藩士とともに下北半島に向かいました。

 その後、東京に出て、警視庁の巡査になり、西南戦争に従軍しました。戦争が終わって東京に戻った斎藤は警視庁の警部になり、退職後は東京高等師範学校の付属機関で剣術の教師を務め、大正四年、数え七十二歳でこの世を去りました。 新選組と会津藩の生き証人が斎藤一でした。

 幕末、新選組と会津藩の大きな転機が訪れます。国政の混乱を避けるため徳川幕府の十五代将軍、徳川慶喜が朝廷に大政を奉還しました。慶応三年の暮れでした。しかしそれは、騙し討ちでした。薩摩と長州の幹部は、徳川慶喜と松平容保に朝敵の汚名をきせ、官職を剥奪し所領の没収を突き付けたのです。慶喜と容保は怒りました。京都に六年にもわたって駐在して天皇を守り、京都の治安維持に当たってきた会津藩兵の怒りはおさまりませんでした。

 かくて慶応四年正月、薩摩、長州を中心とする薩長連合軍と幕府、会津藩との間で戦争が勃発しました。鳥羽伏見の戦争です。会津藩の人々は振いたちました。新選組も燃えました。正月三日、林権助の率いる会津藩大砲隊と土方歳三の新選組隊が飛び出しました。

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