「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
新撰組:鳥羽伏見の戦争

新選組上洛
池田屋事件
禁門の変
会津藩との固い絆
鳥羽伏見の戦争
会津戦争
   
老舗一覧
地図
會津復古会
目次

 慶応四年正月三日、大坂にいた新選組と会津藩は、鳥羽と伏見に二つの街道を京都めざして進軍しました。幕府大目付の滝川具挙のふところには、朝廷に薩摩の罪を訴える書状がありました。幕府、会津軍はおよそ一万人、これに対して薩摩、長州軍はおよそ四千人、だれが見ても幕府、会津軍の勝利はうたがいのないものでした。

 この日の夕刻、鳥羽街道で、突然、薩摩軍が発砲しました。轟然と大砲が撃ち込まれ、先を行く幕府軍は大混乱に陥りました。新選組と会津藩は、伏見街道にいました。「はじまったな、撃ち返せッ」会津藩大砲隊の林権助が叫びました。「ぐわーん」会津藩の大砲が敵の陣地に突きささりました。「いくぞッ」新選組の土方歳三も刀を抜いて飛び出しました。前方の敵は、薩摩の小銃隊です。四列に構えて新選組を待っており、雨あられと銃弾を浴びせてきました。「ええい、ひるむなッ」

 土方は先頭に立って突撃しました。しかし、敵の銃弾はすさまじく、隊員は次々撃たれ、さすがの土方も退却せざるをえませんでした。「ええい、撃て、撃てッ」会津藩大砲隊の林権助は叫び続けました。 砲弾を撃ち尽くすや、林は槍を持って突撃しました。「わああ」突撃する会津の大砲隊員に、またも薩摩兵が銃弾の雨を浴びせ、一瞬のうちに、二十数名が犠牲になりました。林も重傷を負って、身動きできなくなりました。

 薩摩、長州軍のすさまじい砲撃に幕府、会津兵は思わぬ不覚をとったのです。「もう刀と槍の時代はおわったな」土方歳三がつぶやきました。幕府、会津軍は大坂城に引き返し、挽回の策を練りました。全国各地から続々、援軍が大坂に向かっていました。「ここを絶対に守るべし、たとえ一人になっても余は戦いぬくぞ」総大将の徳川慶喜が、檄を飛ばしました。兵士たちはあくまでも戦いぬく覚悟で、再び戦場に向かいました。

 しかし、城に帰ると、そこには将軍徳川慶喜の姿はありませんでした。会津藩主松平容保を連れて、大坂湾から軍艦に乗って江戸に逃げ帰ってしまったのです。「そんなことがあってたまるか」土方歳三は絶句しました。前代未聞の出来事でした。これで幕府、会津軍は総崩れになりました。新選組と会津藩の兵士たちは、あるいは船に乗り、あるいは歩いて江戸に逃れました。会津藩は新選組とともに、この六年、命がけで御所を守り、都の治安の維持にあたってきました。孝明天皇から「朕がもっとも信頼するのは会津藩である」という書状もいただきました。 

 しかし、すべては空しく、会津と新選組の兵士たちは肩を落としてうなだれました。せめて主君の松平容保には、とどまってほしかったと、だれもが思いました。「すまなかった」江戸に引き上げた全将兵に主君が詫びました。皆、声をあげて男泣きに泣きました。薩摩と長州の軍隊は怒濤のごとく、江戸に向かって進撃を始めました。

 ふたたび戦争は避けられない情勢でした。「今度こそ、負けられぬ」新選組と会津藩は復讐を誓いました。しかし今度も事態は思わぬ展開となりました。西郷隆盛と勝海舟の会談で、江戸城は無血開城となり、薩摩、長州軍は会津に兵を進めることになったのです。

  会津鶴ヶ城に戦雲が漂いました。「会津を救え」東北や越後の人々は立ち上がりました。新選組の土方歳三も兵を率いて会津に姿を見せました。「決戦のとき、来たる」会津の人々は、まなじりを決しました。壮絶な会津戦争の始まりでした。

2003, Copyright Aizu-Fukkokai All Rights Reserved