「〜会津歴史ウォッチング〜新撰組と会津藩」
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 慶応四年夏、会津鶴ヶ城に暗雲がただよいました。東北の地に怒濤のごとく攻め寄せた薩摩、長州の連合軍は、白河を攻め落とし、二本松も陥落させ、会津の国境に近づいておりました。

  会津藩主松平容保のそばには、新選組副長土方歳三の姿がありました。「必ず敵を蹴散らして、ごらんにいれます」 土方は不敵な笑みをうかべて、国境の山並みに眼をやりました。しかし、どうみても会津の不利はまぬがれませんでした。いまや全国の諸藩が薩摩、長州になびき、軍隊を派遣していました。

 京都時代、会津に味方していた尾張名古屋、紀州和歌山藩、越前の福井藩も、会津攻めに加わっておりました。「こんな、ばかなことがあって、いいのだろうか」土方は怒りを覚えました。松平容保は黙して語らず、じっと自分の運命に耐えているようでした。土方は国境を視察し、猪苗代の母成峠の防備が弱いことに気づきました。しかし会津軍の兵力は各地に分散していて、十分な補強は出来ませんでした。

 八月二十一日、薩摩、長州、土佐、大垣、佐土原などの藩からなる連合軍二千が母成峠に殺到しました。土方歳三と新選組も必死で戦いましたが、ついに破れ、翌日の夜には、大野が原まで敵が攻め寄せてきました。白虎隊の少年たちも、戦場に向かいました。土方は滝沢峠の本陣で指揮をとる松平容保のもとに駈けつけ、敵の進撃をとめられなかったことを詫びました。

「勝敗は時の運だ、皆、よくがんばってくれた、明日には、ここも戦場になろう。土方、庄内にいって、援軍を求めてまいれ」容保が土方に命じました。「私は殿のそばを離れません」「それはならぬ、いくのだ」容保は強い口調でいいました。八月二十三日早朝、ふりしきる雨のなか、敵軍が会津若松の城下に殺到しました。会津若松の城下は、たちまち火に包まれ、老人や婦女子も槍や、なぎなたで戦いました。混乱のなかで多くの婦女子は自ら命を断ちました。

「土方、いくのだ」容保が叫びました。土方は新選組のなかから斎藤一の部隊を残し、後ろ髪を引かれる思いで、出羽の庄内に向かいました。庄内は会津藩と同盟関係にあり、ともに戦っておりました。
 
  会津若松の戦争はそれから一か月続きました。悲惨な戦いでした。薩摩、長州軍は鶴ヶ城の周囲に大砲を並べ、一日に二千発もの砲弾をあびせました。城には多くの婦女子もがろう城し、片時も休むことなく負傷者の看護や炊事、弾丸の製造にあたりましたが、敵の砲弾に吹き飛ばされる人も大勢いました。敵の兵力は三万を数え、圧倒的に優性のなかでの戦争でした。援軍のない会津軍は食糧、弾薬もきれ、仙台、米沢も降伏するに及んで、ついに会津も降伏を決断したのでした。

 九月二十二日、鶴ヶ城の大手門には降参と書いた白旗がたてられました。降伏しました。すべての将兵と婦女子は、その悔しさに泣き伏しました。土方歳三は、あきらめていませんでした。 庄内藩も降伏したため、今度は仙台に向かいました。

 仙台には旧幕府艦隊の榎本武揚が来ていました。北海道に新天地を開くためでした。会津からも何人かの兵が仙台に向かい、会津遊撃隊を編成しました。明治二年、北海道でも戦争が始まりました。土方歳三と会津遊撃隊は松前の戦闘に加わり、城を攻め落とす戦果をあげました。しかし榎本軍は軍艦開陽丸を失い、次第に箱館に追い詰められました。

 榎本軍の敗色は濃厚でした。会津遊撃隊の幹部も傷つき倒れ、土方はわずかの兵を率いて敵陣に突入し、壮絶な戦死をとげました。享年三十五でした。新選組と会津藩の勇壮な戦いぶりは、滅びる徳川幕府の最後の輝きでした。

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