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2004年03月01日

ふたたび宗教について思うこと

先週、Passionには「キリストの苦難」という意味があると書いたら、その名も"The Passion of the Christ"という映画が公開されてちょっとびっくりしました。監督はメルギブソンだそうで。私がこの映画のことを知ったのは次の記事を見たからです。

米女性が心臓発作で死亡、ギブソンのキリスト映画鑑賞で(CNN.co.jp)

この翌日に、日本ではオウム真理教教祖の松本被告に対する死刑判決が下りました。なんだか不思議な気分です。宗教とカルトの違いって何でしょうね。その名の下に人が殺されればカルト?この定義が正しくないのは歴史を見れば、いえ、歴史じゃなくても新聞を見れば明らかですね。

今回の死刑判決は彼がしてきたことと照らし合わせれば妥当ではありますが、オウム真理教には現在もかなりの信者がいる(しかも日本だけではない)ことと、すべての宗教は教祖の死後にこそ発展したことを考えると、本当に大丈夫かなという気になります。ここで彼を死刑に処すと、上記の映画さながらの材料を作ってしまうことになるのではないかと思うのです。しかし、だからといって何か代替案があるわけでもないのですが。

私自身は特定の宗教に帰依しているわけではありませんが、他人が何を信仰しようと気になりません。ただし自分の生活が干渉されない限りは、という条件つきですが。しかしこれがなかなか折り合わないんですよね。布教も信仰のうちである宗教もありますし。拍手(かしわで)の打ち方も知っていれば結跏趺坐(けっかふざ:禅定修行の坐相)も組めるしヨーロッパの教会美術に感動する私は、柔軟で平和だと言われたこともあれば、心のよりどころがないなんて不幸な人だと言われたこともあります。おそらくどちらも正しいのでしょう。

最も目から鱗だったのは、アメリカ人のキリスト教徒に「あなたは宗教を持たないと言うけれど、あなたの生活規範には仏教や神道の影響が少なからずある。もちろんそれだけじゃなくて儒教とか他の哲学も入っているけど。でもあなたはまったくそれを意識していないし、しようともしない。当たり前のこととして生活に融け込んでるよね。本来宗教とはそういうふうにあるべきもので、自分は何々教徒だと声高に主張しなければならないうちはまだ何か足りないんだと思う。私はあなたが羨ましい」と言われたことです。なるほど、そういう見方もあるんですね。というか、一神教の人は頭かたくってやだわーなんて偏見持ってた私が悪かったごめんなさい、と謝りたくなった一幕でした。

今週は桃の節句があるので、友達とちらし寿司でも食べようと思ってすし太郎を買ってきました。菱餅も草餅も無理なのですが、すし太郎くらいは手に入ります。日本はデフレでいろいろと値下がりしているようですが、ザールブリュッケンの日本食需要は低く競争もないので、そんなこととはまるで関係なくすし太郎は高価です。でもまあ、こういうのもたまにはいいです。曲水の宴(※)を張れるような教養が私にあるわけもないので、ちらし寿司でお茶を濁すということで。


※曲水の宴(きょくすいのえん):上巳(じょうし:五節句のひとつで、陰暦三月初めの巳の日。後に三月三日に固定)に行われた、古代朝廷の年中行事。参加者は曲水に臨み、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎる前に歌を詠んで杯をとりあげ酒を飲み、次の人へ流す。その後、別の宴席を設けて詩歌の披講会・・・き、きびしすぎる!私だったらプレッシャーに負けて前日に熱出してます。
昔の人は蹴鞠はできるわ楽器はできるわ歌は詠めるわ酒は飲めるわ、いろいろと器用なんですね。自分の歌の才能のなさを嘆いて鬱病とか自殺とか、そういう平安貴族はいなかったんでしょうか。他人事ながら心配になります。あ、でも、歌合で負けたことが原因で気落ちして亡くなった人はいましたね。

投稿者 akiko : 2004年03月01日 08:36

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